話題の書『岸惠子自伝 卵を割らなければ、オムレツは食べられない』(岩波書店)を読んだ
ちょっと不思議な副題は、長崎で「ヨーロッパを見に来ませんか」とプロポーズしたフランス人映画監督のイヴ・シァンピ氏が口した言葉だそうだ。その部分を引用させてもらおう。
《卵を割らなければ、オムレツは食べられない》という諺がある。でも、いろいろな国を見て、やっぱり日本がいいと思ったら、帰ってくればいい。卵は二者択一の覚悟が決まったときに割るほうがいい。
いまどきの言い方をするならば、「リスクがないところにベネフィットもない」となるのだろうか。いずれにしても、24歳の岸惠子氏はスター女優という日本での生活にいったんピリオドを打ち、単身でシァンピ監督の暮らすパリに旅立って、結婚した。そしてそれから65年、何度も“新しい卵”を割りながら新しい道を切り拓き、いまなお社会で活躍を続けているのである。
――本当にすごい。
ため息をつくばかりだ。もし彼女の前で「私はもうこんなトシだから新しいことなんてできそうにない」と言ったら、笑われるどころか「あなたの相手をしているヒマはない」と一瞬で立ち去られてしまいそうだ。
いや、しかし、とさらに私はつぶやく。もし、自分が現在の岸惠子氏の年齢、つまり80代後半まである程度、健康で頭もしっかりしているとわかっているなら、「あれもしよう、これもしよう」とプランを立てて“新しい卵”を割るかもしれない。問題は、その自分の残り時間がどれくらいかがわからない、ということなのだ。長期計画を立てようにも、「でも10年後はこの世にいるかどうかもわからないし」と考えてしまうと、その先に進まなくなる。
なぜこんなネガティブなことを考えたかというと、その著作を愛読していた生物学者の団まりな氏が2014年に64歳で事故により急逝したことを、つい最近、知ったからだ。愛読者なのに7年間もその訃報を知らなかったという方がどうかしているのだが、大学などには所属せず房総・館山で研究と農業やジャム作りを両立、という理想的な生活を送っていた団氏のことだから、いまも悠々自適の生活をしていると勝手に想像していた。
連想ゲームのような話で恐縮だが、「分子で細胞は理解できない」と遺伝子を中心とした分子生物学を否定し、「細胞には生きるという意思がある」と主張し続けた団まりな氏のことを思い出したのは、この春に日本の若手女性生物学者が画期的な研究成果を発表したことがきっかけだった。
まだ大学院生である三藤清香氏は、「ウミウシ」という大きなナメクジのような海の生きもの(実は貝の仲間だそうだ)に「頭部から胴体を自ら切断した後、胴体が再生する種」がいることを発見して論文にまとめた。三藤氏は取材にこたえて、「(鹿児島市で採集し研究室で飼育しているウミウシの)頭と体が分離しているのを偶然見つけ、頭が元気そうに動いていたので驚いた。近いうちに死ぬと思っていたら、餌を食べて体が再生したのは衝撃的だった」と語っているが、その様子は私たちも『WIRED』の動画で見ることができ、本当に衝撃的だ。
では、なぜウミウシは自己のからだを切断し、そしてまた再生するのか。三藤氏の考察によれば、その目的は「胴体に巣くい、産卵を妨げる寄生動物の排除」ではないかということだ。ただ、アメリカの別の研究者は「外敵に襲われて体のかなりの部分を失った際の再生の手段として、進化の過程で適応した結果ではないか」とも言っており、その目的やメカニズムにはまだ謎も多い。
この報道を見ていて私が思い出したのが、団まりな氏の『細胞の意思』(NHKブックス、2008)だったのだ。本書にも生きものが示す不思議な行動が数多く出てくるが、とくに強調されているのが、それが細胞レベルで行われていることだ。たとえば、ヒトデの幼生(成体に変態する前の段階)は、ある条件下でバラバラにすると、集まってきてまた元の形を作ろうとする。ヒトの体内に異物が混入すると、あちこちからマクロファージと呼ばれる血球成分が集まってきて、それを取り囲むようにして貪食する。それらを観察していると、「細胞には生きるという意思があるとしか思えない」と団氏は言うのである。
生物を遺伝子レベルではなく細胞レベルで考えようとし、さらには「細胞の意思」なる概念まで提唱する団氏の主張はやや特異で、「およそ科学的ではない」と批判の声も大きかった。しかし、意思や自発性の根源を、ゲノムなどの分子レベルではなく、かといって脳や心でもなく、「細胞」という素朴な単位に見ようとする団氏の発想には共感させられる部分がたくさんあった。つらくなったときなどじっと手を見て、「生きているのは〈私〉ではない。私の細胞なのだ」と唱えることで、なんだか気がラクになったこともあった。
先の「自分でからだを切断し、また再生するウミウシ」にも、「細胞の意思」に近いものを感じる。ウミウシの脳が「いまのからだには寄生虫がついて使えないな。よし、このへんでおさらばするか」と自分を切断し、「これじゃカッコがつかないから、また胴体を作り直すか」と再生を決意している、とはとても思えない。
かといって「すべてはゲノムにプログラムされた機械的反応」と考えるには、あまりに不思議な現象だ。だとすると、細胞レベルなのかどうかはわからないが、「脳とゲノムのあいだ」くらいの何かが、意識でもなく機械的反応でもないメカニズムでもって一連の動きを決定し、実行している。そう考えるのがいちばん自然のような気がするのである。
そんな「ウミウシの切断と再生」の発見の話から久しぶりに団まりな氏を思い出した私は、彼女自身のこの世での生命はすでに途絶されており、再生もされていないようだ、という残酷な事実を知ることになった。「団さんの遺志は、大学院生の女性生物学者が引き継いでいるようですよ」と考えれば話としては美しいのかもしれないが、それよりも「64歳で突然終わる。そんな人生もあるのか」という生々しさで胸がいっぱいになった。
私自身はどうなのだろう、とこの年齢になるとつい我が身のことを考えずにはおられない。80代後半でも新刊を出し、それが大きな話題になっている岸惠子氏に近い人生となるのか、それともそれなりに好きなことをやっていたのに60代半ばでそれが唐突に終わる団まりな氏に近い人生が待っているのか。あるいは、それを足して二で割ったような人生、つまり70代になったあたりでからだを壊しかけたり認知症ぎみになったりして、元気でも寝たきりでもないという生活を送ることになるのか。
それは誰にもにわからない。そして、この「先がどうなるのか、いつまで続くのかがわからない」ということが最大の問題だということを、60代になってしみじみと感じるようになった。「人生100年時代」などとメディアは気軽に言うが、そんな保証はどこにもない。かといって「100年ではない」という保証もどこにもない。「1年でいくら生活費がいるとして、残り何年だからこれくらい貯金ができたらあとは働かなくてもいいはず」という計算ひとつできないのだ。
ただ、よく考えてみれば「先が何年続くかわからない」というのは、何も60代に限った問題ではない。その確率が低いというだけで、30代、40代で突然、終わりを迎える人生もある。ときどき「結婚式から何カ月で突然、がん宣告され余命を告げられた」といった悲劇がドキュメンタリーなどになるが、それは誰にでも起きうることであり、むしろそういった重病にもならず事故にもあわず、50代、60代と生き延びてきたことを「偶然のなせる幸運」と考えるべきなのだろう。
では、私の場合、これまで生を貪ってきた僥倖をどう考え、何をなすべきか。「私ってラッキー」とひそかにほくそ笑み、「これからもたぶんこれが続くだろう」と人生を楽しめばよいのか。それとも、与えられた恵みはやはり社会や世間などに還元すべきなのか。
そんなことを漫然と考えているうちに、もう今月も終わり、いよいよオリンピック開幕の月を迎えることになりそうだ。いったい何がどうなるのか。70代、80代の自分どころか、「1カ月後の東京」のことさえ誰もわからないではないか、と思うと、不安なようなちょっと安堵するような、おかしな感情が胸に満ちてくるのである。
からの記事と詳細 ( 「ウミウシの切断と再生」に思う、人生の残り時間|おとなの手習い|香山リカ - gentosha.jp )
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