●本という贅沢130 『推し、燃ゆ』(宇佐見りん/河出書房新社)
コラム「本という贅沢」。今回は史上3番目の若さで芥川賞に選ばれた宇佐見りんさんの受賞作です。紹介するのは、前作のデビュー作『かか』を読み、次作を心待ちにしていた書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さん。作品の世界観を読み解きます。 【画像】芥川賞に決まった宇佐見りんさん【受賞当日】
これは大人になってから知ったことだけれど、1日が24時間で、1時間は60分で、その長さは常に変わらないというのは、嘘だ。 いや、相対性理論がどうこうといった難しい話じゃなくて。 時間は、決して均一に流れていないということをね、大人になると知るよね。 たとえば、たった数分の記憶を何度も何度も脳内で転がすことって、ある。そのとき私たちは、その時間を文字通り糧にして生きているし、何度もその時間を体験し直して生きている。そんな時間は、数分でも、長い。長く人生を支配する。 一方で。 異変がなければ、その部分の映像は消去される警備用カメラのように、“なかったことになる”タイプの時間もある。とどまらなかった記憶は、さらさらと空気に溶けて、蒸発してく。 私が、「ていねいな生活」という言葉に、いつも抱くちょっとした違和感。 それは多分、全部の時間をていねいに過ごしたいなんて、思ってもいないからだ。もっと偏愛的に、一瞬に一ヶ月分を燃やすような時間があれば、それでいい。その記憶だけで、残りの29日は食っていける。 「忘れられない時間を過ごした」なんて、人はよく吐くけれど(私もよく書くけれど)、本当に忘れられない時間なんて、そう多くはない。 『推し、燃ゆ』を読んでいる間、そんなことをずっと考えていた。 以前、このコラムで紹介した『かか』もそうなのだけれど、宇佐見さんの文章は、「その瞬間」が爆発的に増幅されて、重みと厚みでつぶされそうなくらいの圧でせまってくる。 たとえば、 推しを“発見”した瞬間。 推しと“重なろう”とした瞬間。 そして、推しを“解釈できたかもしれない”と思った瞬間。 それぞれの瞬間が、呼吸もできないくらいの濃度でせまってきて、それ以外の日常をなぎ倒す。人生が推しに染まっていく。 逆に、推しに関係しない時間は、どんどん希薄になっていく。あってもなくてもいい時間になっていく。 そのコントラストが残酷なくらい、くっきりとしている。 推しに生活を侵食されていく描写を、私は、どこか憧れを感じながら読んでいた。 推しが見ている景色を見たい。 推しと思考を重ねたい。 そして、掛け値なしに無防備に、推しを愛し尽くしたい。 ああ、私も、そう願ってずっと生きてきたなあ。 そう思ったのだ。 “推し”を、恋人や、好きな人、尊敬する人などと置き換えたら。私だけではなく、多くの人がそうなのではないだろうか。 自分ではない誰かを知りたくて、理解したくて、ときどき核心に手を触れることができた気がして、その瞬間が欲しくて生きている。 正直、自分をわかってもらうことよりも、誰かの理解者でいられるかもしれないと感じることの方が、快感の度合いが強い。幸せの密度が濃い。 ただし。 そんな推しを愛し尽くす人生には、大きなリスクがある。 そう。 推しの消失だ。 推しを推す生活は、 つまり、愛する人を掛け値なく推す生活は、 多くの場合、終わりがくる。 自分都合で終えられるときはいいけれど、もしくは推しを乗り換えられるときはいいけれど。相手都合で、ある日突然推しが消失すると、それはもう自分の死とニアリーイコールだ。 この小説でいうところの、“自分の背骨”を明け渡してしまうと、推しが消えると自分も消える。 世の中には、こういった「透明な死」があふれている。そして、「透明な血」で染まっている。 宇佐見さんの小説は、そんな透明な死の現場に流れた透明な血を、ルミノールで炙り出したような感じだったよ。 各所で言われているように、『推し、燃ゆ』は、とても今っぽい小説だと思う。 21歳の作家さんならではの筆致で、今どきの若者を取り巻く世界が、今どきの装置と言葉でビビッドに描かれていると思う。 だけど『推し、燃ゆ』が、私にもここまで刺さってしまうのは、「推しのある生活」の豊かさと、「推しのある生活の消失」の絶望を、みんな知っているからだ。 人は、一人で生まれてきて、一人で死んでいくと言われるけれど。 それは嘘だと、みんな直感的に知っている。 私たちは、死ぬまでにちょっとずつ、誰かと一緒に死んでいく。 私たちの死も、ちょっとずつ誰かを、殺していく。 『推し、燃ゆ』は、推しの話のようでいて、推しだけの話じゃないんだよ。 若者の話のようでいて、若者だけの話じゃないんだよ。 これって、誰と生きて誰と死んでいくかの話なんじゃないかなあ。 そんなことを、思ったよ。
文・写真・メモ:佐藤友美
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